書の古典はいくら学んでも学び尽くせないものです。
だからこそやっていく価値があると思っているのですが、
今回は古典を学ぶときの一つの見方についてです。
これは特に法帖(比較的新しい墨で書かれたもの)をよく観察する時に、
【法帖全体をぼんやりと眺めてみる】
と、まるで音楽の譜面のように感じる時があります。
クラシックの古典の譜面と、現代に残る書の古典は相通じるものがあるのではと感じるのです。
行書の一番の銘品と名高い「蘭亭叙」も、
天気の良い朗らかな日にお酒が少し入った状態のとてもリラックスした状態で、何の気なしに書かれたのだとか。
そのため訂正した所があってそこが黒く塗られていたりします。
でもそういった黒のコントラストなども含めて、美しく流れるように、でも力強く、
いろんなものが渾然一体となっています。
音楽の譜面も、留まる所、強い所、弱い所、さらには感情面などなど、あらゆるものが一体となっているものを譜面として記されています。
古典は最後までやらなければならない、とよく言われます。
それはそういった音楽的なイントロがあってサビがあってまたイントロに戻って、
というようなストーリー性も感じて学びにしていく必要があるからだと思います。
拡大して一文字ずつやる古典の練習も良いですが、たまには全体を見て、最後まで一気に気軽にやっていく学び方も良いと思います。
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