【知識のその先へ】「識(しき)」の部分こそがあなたの書く字になる

書全般

以前の記事で「知識」という言葉について述べましたが、

日々の古典練習の中でまたふと気づいたことがあります。

それは、

「識(しき)」の部分こそが書く文字になる

ということ。当たり前の事なのかもしれませんが…。

以前の記事では半分ずつが「知」と「識」になるという事を述べましたが、

そこから一歩また進んで

二八(28)の法則

というのがあります。

「にはちのほうそく」だったり「にっぱちのほうそく」だったり、

もっと詳しくツッコむと22:78だったりするわけですが、私はよく「ニッパチの法則」と言ったりします。

□の中に○を入れた比率だったり、空気中の酸素と窒素の比率もこの法則にあてはまるようです。

「知」が8割で、「識」が2割。

AIという人口知能にしても、たくさんの情報を食べさせるとも書きましたが、

8割の「知」=情報を得た上で、その膨大な情報を処理した果てに2割の「識」を産みだすのだと思います。

何事も上達するには勉強をして「理解する」ことが大切だと思うのですが、

1,000年以上も前から、これは後世に残すべきだ!という理屈を超えたモノが「古典」として今現在の我々には伝わっています。

書家は古典を一生学ぶべき

とはよく言われますが、

書の真髄を理解するために一生古典をやらないといけない

とも言えます。

古典は時代が古すぎるため習いにくいというのは確かにありますが、

私自身もこのブログを通じて古典を分かりやすく学べるモノを残していければとつねづね考えています。

この分かりづらい古典を頑張って書いて書いて蓄積する「知」のもと、

いざ、真っ白い紙の上に自分の字を書いていくわけですが、

ここでモノを言うのがそれまでに書いて理解してきた「識」の部分になると思うのです。

字なんて書くときはほんの瞬間です。書き出す前はアレコレ構図やら配置やらを決めることはできますが、

書き始めたら止まれない戻れない書き直せないわけです。

こういった部分は音楽と同じだなとも思うのですが、

その瞬間的に書き進める時の羅針盤となるのが「どれだけ理解してるか?」=「識」になり、

それが「自分の字」となって出現してきます。

そういうわけで、「識」こそが書かれる字そのものになるという事なわけですが、もうひとつ、

「知」の質・クオリティも考えるべきだとも感じます。

食の安全だったり、ジャンクフードという、とっても美味しいけど身体にはあまり良くない食べ物があります。

食べたものがそのまま血肉になるように、食べ物の質はそのまま身体の質に直結します。

それは「知」においてもそうです。

脳に食べさせる「知」も、長い歴史の中で最良とされ残ってきたものを食べさせるのか?歴史の浅い不確定なものを食べさせるのか?

そういった視点で情報を得る=「知る」というのも、とても大切なのではと思います。

長年の蓄積が良くも悪くも影響してきます。

たまにはジャンクなものも良いけれど、それをメインにしてはいけないのは、モノゴトは全部同じなのかもしれません。

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田畑明彦

田畑明彦

在野の書家。書壇からは距離を置いて独り書の道を追求しています。質屋大学書道科にて現在も勉強中。その成果を地道に発信していきます。

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