「知る」と「識る」
「知識(ちしき)」という言葉は、
どちらの文字も「しる」と読みます。
「知る」という字は、弓矢の「矢」と「口」の2つの合わせ文字です。
大昔、神様に「矢」をささげて、祈りを書いたものを入れる器の形が「口」として、合わせて「知」であるという説があります。
現在でも「知る」というのは、人から教えてもらう「良いコト聞いた!」など、外からの情報を知るが「知る」です。
では知識の「識」は?というと、
これもまた同じく「識る(しる)」と読みます。
「識」という字は「言(ごんべん)」と織る(おる)という字の右っかわの部分(「ショク」と読みます)の2つの漢字の合わせ文字です。
(ちなみに、マスクに不織布(ふしょくふ)がありますが「織」も「ショク」と読みます。)
機織り機(はたおりき)というものがありますが、これは糸を編み込んで布を作るための機械です。
「織る(おる)」というのは、タテ糸とヨコ糸を上手に編み込んで整理しながら布を作るということです。
「識」は糸の変わりに「言(ごんべん)」をつけて、
タテ糸やヨコ糸などのいろいろ知った事をキレイに整理して、新たに自分で気づくこと、発見すること。
これが「識る(しる)」という事になります。
そういうわけで、まずは見て聞いた「知った」事を自分なりにぼんやりとでも整理して、
その中から新たに気付いた発見が識るということ。
知るが外からの情報なら、識るは中からの情報とも言えます。
「知識」という言葉は外と内の2つがあって「知識」という事になります。
半分は「気づく」ことが知識
「学力」をつける。
という、学校のいろんな教科で学ぶことは「知る」ことがまずは前提だったりメインになります。
でもその「知った」ことから自分の体験や経験などを通して得られるのが「識る」ということ。
クルマの両輪のように、左の車輪が「知」で、右の車輪が「識」であるとも言えます。
これが理解するという事の本質なのではとも考えます。
ですがここで「教えること」「学ぶこと」のムズカシサが出てくるのですが、
本当の意味で、学力の半分は、学校では(というか誰であっても)半分しか教えられないということ。
残り半分は自分で「気付かないといけない」という事なのだと思います。
私自身、書に関するいろんな本も読んでいるのですが、そこで「知ったこと」を日々の古典練習の中で実践したり試してみたりするうちに、ふと「気付く」ことが結構あります。
「あ、そっか。」「これってこういうことか。」と言うように発見することが多いです。
でもこの「気付いたこと」や「発見」がものすごく実になるし、そして自分で発見した事だから忘れにくいです。(自分の血肉になるような感覚と言いますしょうか…。これが腑に落ちるってことかも。)
そういうわけで、人に教えることは半分しかできないんだな…とも思いながら、ペン字の講師などにも臨むようにしています。
ですが逆にそこを分かっていると、気付いてもらえるように仕向けた教え方もできるのかなとも思います。
知識という言葉は奥深い
「知識」という言葉は奥深くて、本当によく出来ていると思います。
「知って」から「識る」のはどんな事にも通ずることでしょうが、改めて考えてみるのもいろんな発見ができると思います。
AIという人口知能もまずは知識を食べさせるという、そのジャンルの膨大な情報をとにかくたくさん与えて学習させるというのを聞いたことがあります、
AIも「識る」への追究なのだろうと思います。
人類は「知りたい」けどそれ以上に「識りたい」のだと思います。
これもまた「知識」という「知っていることから識りたい」なのでしょうね。
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