教える時にふと疑問に思っていること
人をモノを教えるという仕事をしている中で、こと、この「綺麗な字を人を教える」という事について毎回思うことがあります。
字を教えている中で(とくに子どもには)「綺麗な字という矯正をする必要があるのかな…?」ということです。
今回の記事ではそんな日々思うこと、人をモノを教えることのムズカシサについて述べたいと思います。
なんて純粋な子どもの字
とくに子どもに字を教えるときに、いつも思うことが、
「子どもってなんて純粋な字を書くのだろう」
ということです。
ここ数年とくに思うことなのですが、
私も長年、古典を呼ばれる書の名品をずっと見て書いて練習している中で、
字の良し悪しというのが少なからず分かってきたような気がします。
そういった視点でみると、子どもの字はなんといっても「良い字」なのです。
もちろん上手ではないのですが、これは私がブログの題名にもかかげているように、
「上手な字よりも良い字」がやはり上等なのだと思っています。
子どもの純粋な気持ちで書かれた字は無条件に「良い字」です。
少なからず書の良し悪しが分かってくると、子どもの字は本当に心が洗われるような良さを感じます。
矯正する必要があるのか?という疑問
なので毎回思うことが、こんな純粋無垢な良い字を、
「綺麗な字とされる書き方」で矯正する必要があるのか?
と教えるたびにふと思ってしまうのです。
まあこんな疑問は「書道講師やってるくせに、そんな事考え出したらだめでしょ!」とか言われそうですが、
確かに純粋な子どものうちは「良い字」でも、
だんだんと知恵がついてきて、言葉は良くないですが俗にまみれる(でもそれが大人になるってことですが)うちに、悪いクセだとかがついてきてしまいます。
そういった悪いクセを矯正する、という意味では「書の綺麗な書き方を教える・指導する」というのはとてもとても大切なことだと思います。
ですがこの「教える・指導する」ことが本当にムズカシイのだと感じます。
悪いクセは直しつつも、その子独自の良い書き方は伸ばしてあげる、なんていうある意味神ワザみたいなことが必要なのだと感じるのです。
「カチッと楷書」「スラスラ行書」
ところで私は幼稚園の頃からエンピツ書き(硬筆:こうひつ)を習ってきましたが、小学生の時ながらに覚えていることが、
「習っているがゆえに日常の字はヘタになる」
という覚えがあります。
「カチッとした硬筆作品」は立派に上手に書けても、
ふだんの日常に書く、たとえば宿題の漢字練習ノートの時の字は、覚えるためにたくさん書かないといけないし、
宿題なんて早く終わらせたいのでスピード重視になってしまい、書きなぐるような書き方になってどうしてもザツになったりすることがよくありました。
そういったスピード重視の綺麗な書き方はまた違うし教えてもらえないため、どうしてもそれは汚い字になってしまいます。
なので小学生ながらに悩み、疑問としてモヤモヤしていた記憶があります。
このことはいずれ教材化をしたいと強く考えている部分なのですが、
・いざという時のカチッとした書き方 ⇒ 楷書(かいしょ)の書き方
・ふだんの生活でのスラスラとした書き方 ⇒ 行書(ぎょうしょ)の書き方
の2つを「柱」と考えて、どっちも学ぶ必要があると思っています。
「カチッと楷書」は上手に書けても、それはどうしても時間がかかってしまいます。
例えば点線を書くときって、ふつうに線を引くよりもずっと時間がかかります。
いちいち止まって、また止まって…とひたすらくり返して点線は書きますが
「カチッと楷書」はそれと同じで綺麗に書けるけど、時間がかかります。
小学校では学校でも書道教室でも「スラスラ行書」までは教えてもらえないので、
自己流のくずし文字、我流の行書を編み出してしまいます。
私はこのことも字が汚いと悩まれている方の原因の一つと考えています。
小さい頃から「カチッと楷書」ばかり習っていても不十分で、
現代の多くの方がホントに必要としているのは「スラスラ行書」だと思うのです。
この「スラスラ法」は、別に「行書(ぎょうしょ)」でもありますが、
学校では中学校の毛筆の時間に少しだけしか教えてもらえないですし、
書道教室などでも毛筆としてボールペンなどの硬筆として十分に教えてはもらえますが、
それでも日常で使える書き方かというと、不十分ではないかと思います。
そしてもっと言うと、今の世の中は「ヨコ書き」で書くことがほとんどだとも思うのです。
書道教室では伝統を大事にすることもあってタテ書きメインで教えるため、
日常のヨコ書きでの綺麗な書き方、というのまではなかなか学ぶことはできないとも思います。
「カチッと楷書」があくまでメインで「スラスラ行書」はついでで、どうしてもメインとしては教えてもらえていないのが実態だと思います。
「型」を押し付ける危険性
話が少しそれてしまいましたが、
この「カチッと楷書」を学校では「読み書きソロバン」の「書き」の部分として、
社会の中で、日常生活の中で、必要最低限書くことができるように教えてもらえます。
(こちらの記事もぜひご覧いただきたいです。↓)
義務教育の中では「必要最低限がなにより優先」なので
「綺麗に書く」
ということまでは教えてもらえない(というよりそこまで手が回らない)ことが一般的です。
なので習字教室・書道教室があるわけですが、やはり一番注意しなければいけないと思うのが、
「型」を押し付けて終わらないこと
だと思うのです。
「型」という一定の規範(いわゆるお手本)をモトにして教えることが一般的です。
でもこのお手本だけを一方的に押し付けて終わらないようにすることがものすごく重要だと感じます。
しかし同時に、このことはものすごくムズカシイことだとも感じます。
たしかにお手本という「型」どおりに書かせて、それを基準に教えたりマルバツをつけるのは時間もかからずカンタンですしラクです。
でもそれは同時に生徒一人ひとりの個性や良さも殺してしまうことにもなるという事を、どこかで分かっている必要もあるのだと思います。
この辺りのサジ加減が神ワザが必要と思う理由なのですが、やはりそのためには生徒の書いている所を見たり、教える側の目の高さを養うことが必要なのだと思います。
「法則」を教える。気づいてもらうように教える。
なのでお手本をそのまま指導も良いですが、
「法則」を教えることがまずは大事なのだと思います。
モノゴトの背後にある、いろんな事に通じる法則をまずは抽出して、それを教えること。
私自身も「美文字」に関する教材を作っている中で、ココは外してはいけない、ココさえ分かっていれば大丈夫、という「綺麗に見える法則」というのが確かにあります。
そしてもっと大事なのは、その法則を一応分かった上で、自分で発見すること、
「あ、こう書くともっと綺麗に見えるよね。」
と気づいてもらえるように仕向けるような教え方が大事なのだと思います。
技術は半分しか教えることができない
あとの半分は自分で見つけるしかない
と思うのです。
このことはいろんな事に通じることだと思います。
人にモノを教える、伝えることのムズカシサは永遠のテーマでもあると思いますし、
ここまで書いたことは理想論ではあると思いますが、
明文化・言葉にすることで何か発見があれば幸いです。
私自身も日々の練習の中で何かを発見する、気づくことが何よりも身になっていると感じます。
そういった事をまたこのブログや教材で発信していけたらと思います。
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